伊達家を出奔した伊達成実の「自負心」
武将に学ぶ「しくじり」と「教訓」 第82回
■毛虫の前立てが示す伊達成実の「自負心」

成実は天正17年(1589)の摺上原の戦いで活躍。この一戦で、伊達家は会津地方を支配下に収めた。写真は芦名義広の危急を救う際に戦死した、金上盛備、佐瀬種常、佐瀬平八郎常雄の忠義を伝える摺上原古戦場の三忠碑(福島県耶麻郡猪苗代町)。
伊達成実(だてしげざね)は伊達政宗(まさむね)の一門衆で、「戦場では、決して後ろに退かない」ことを表したと言われる毛虫の前立てが有名な武将ですが、その他の経歴は一般的にあまり知られていないと思います。
成実は人取橋(ひととりばし)の戦いにおいて政宗の窮地を救う活躍を見せ、その後の郡山合戦や摺上原(すりあげはら)の戦いなどでも武功を挙げ、伊達家の勢力拡大に貢献しています。豊臣政権下での葛西大崎一揆や、文禄の役にも伊達家の重臣として従軍していましたが、突如として伊達家を出奔してしまいます。
これには、功績を積み上げてきた成実の「自負心」の強さが関係していると思われます。
■「自負心」とは?
「自負心」とは、辞書によると「自分の能力や仕事に自信を持ち、それを誇りに思う気持ち」とされています。加えて、何事もやり遂げるという責任感が付随します。「自負心」は、プライドや矜持に置き換えることもできます。
「自負心」と混同されがちな「自尊心」は、「他人からの干渉を無視して品位を保とうする態度の事」とされています。自分の能力や功績の有無に関係なく、自分を尊いと思う気持ちなので、「自負心」とは大きな違いがあります。
成実は、伊達家に貢献してきたという「自負心」が人一倍強かったのだと思います。
■亘理伊達家の事績
伊達家は藤原北家の藤原山蔭(ふじわらのやまかげ)を祖と称しています。鎌倉時代初期の奥州合戦での活躍によって、源頼朝から伊達郡の地頭職を得た事が始まりとされています。
伊達宗家14代伊達稙宗(たねむね)のころに陸奥守護に任じられ、奥州探題の大崎家や羽州探題の最上家を傘下に取り込むなどして、勢力を拡大させています。
この稙宗の三男実元が成実の父です。なお、稙宗の長男晴宗は政宗の祖父です。
実元は越後守護の上杉定実(うえすぎさだざね)の養子となり、家督を継ぐ事が決まっていましたが、この縁組に反対する晴宗が周辺勢力を巻き込んで稙宗と争うことになります。この天文の乱によって、実元の上杉家への養子縁組の件は立ち消えとなりました。その後、晴宗の次女を正室に迎えて、成実が生まれています。
成実は血縁的に政宗に近く、江戸時代には晴宗の四男を祖とする石川家に次ぐ一門衆とされます。実元は現在の福島市にあった大森城を任されるなど、伊達家の一門衆として重用されていきます。
成実も家督を継承すると伊達領の南部を抑える役割を担うなど、伊達家の重臣として活躍していきます。そして、成実が亘理城(わたりじょう)を任された事から、亘理伊達家と呼ばれるようになります。
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